たとえば「チェーン店の牛丼」についても、おいしいとかおいしくないとか、高いとか安いとか、味が濃いとか量が少ないとか、切り口が色々。それぞれの切り口で、それぞれにモノサシがあります。
ゆえに、スムーズなコミュニケーションには「定義」が重要です。どのモノサシを使うか互いに承知する作業。そこを決めなければ、センチとインチと寸が入り乱れちゃいます。よって、当ブログで用いられる言語は二十一世紀初頭の日本語がベースです。記事内容も同時期のゲーム、IT、社会、日常などです。
……なんて、そのような定義を毎度確認するのは互いに面倒だし、ナウくありません(二十世紀の日本語)。ゆえに持ち出される、というか頼られるのが「共通認識」です。「常識」はこれの規模デカい版。
きょうつうにんしき
言葉にせずとも、それはそういうことじゃん?が通じ合う状況。であれば省略できますから話が早い。よこもじでは「ハイコンテクスト」などといいます。にほんごをしゃべるでござる!!
そこを下敷きにして交流できるのが理想なのですけれど、現実にはなかなか難しい。冒頭でお話したとおり、ひとつの事象を前に語り合ったとしても、自身や相手のとるアングル、用いるモノサシの精度差などでスレ違うことが多々あります。むしろスレ違わないほうが稀で、何事においても解釈一致なヒトと出会ったら何をおいても大切にするべきです、という話はさておき。
教育などによって共通認識を育めますけれど、教育できるということは、これから先にはまた違う認識を持ち得るわけです。そうなった際にどうするか。再度話し合うのか、敵対するのか、無視するのか。共通認識がある前提で他者と交流するならば、通じなかったときも想定しておくとしあわせ。
じょうしき
あんまり好きな言葉ではないのですけれど、人間社会ではたびたび明示的に出てきたり、暗示的に扱われたりするアレ。常識だからといって正しいとは限りませんが、正しさがすべてではないのもまた人間社会です。それに従うかは別次元として、そういうもんだ、と知っておくのは大事。
事象 A に対して私が X と思っており、あなたも X と思っている。お隣のシドさん、斜向いのシュトラさん、裏手のユウギリさんも X と思っている場合、この町内では「A は X」の共通認識が存在すると表現できます。エオルゼア町に住むみんなが、それはそういうことじゃん?と認識しているモノ。エオルゼア町での常識。
でもガレマール町のゼノスくんやソルさんは Y と思っていれば、我らと彼らには共通認識が成り立たず、エオルゼア町の常識が通用しません。そのとき、自身たちの常識を疑うのか、彼らを疑うのか、あるいはどちらもか。
厄介でござるよね
相互に「自分は A だと思っていて、相手も A だと思っている」なら良いんですけれど、片方が B だと思っていたら、スレ違いなり正面衝突なり発生して事故るわけです。そして、人間関係とはそれらの連続で、むしろスレ違いの状況では手を伸ばしあったり、衝突しそうなら互いに避けたりする営みだったりします。
でも、関わりのあるヒトすべてにそれをできるほど、人生は長くありません。なので私はもう、一部を除いて「私のモノサシを明らかにして、一致するヒトと楽しめたらいいや!」と考えるようになりました。
面倒くさがりなので
明確なエビデンス等はありませんけれど、こうしたブログなり SNS なり、主体的かつ自発的に行動できる現代人類は二割ほどとの話を聞いたことがあります。であれば、なんだかんだ発信したり表現できる特性を活かせたらいいのかなって。ブログで侍や刀について書き綴ったり、Twitter で料理写真あげまくったり。それを好ましいと思ってくださる方と楽しく過ごせたら良いなーって。
きょうのせっしゃのばんごはんは、
・昨晩の残りホッケほぐし身とサーモンたたき丼
・ひじき煮
・写り激悪なめこのお味噌汁でござる₍՞◌′ᵕ‵ू◌₎ pic.twitter.com/jRrhkmNbuO
— 松乃雪 (@Matsu_no_Yuki) May 13, 2020
ぼんごれろっそとおにおんぐらたんすーぷでござる₍՞◌′ᵕ‵ू◌₎♥🐚 pic.twitter.com/fH3rPQ1nIq
— 松乃雪 (@Matsu_no_Yuki) May 9, 2020
この境地へ至るまで、話し合えばきっとわかりあえる!とか、苦言にも真摯に対応すべきだ!みたいなことを自分に課していた時期もあります。もちろん、耳が痛くても「正しい」のならば聞き入れるのですけれど、正しさってモノサシ次第です。批評していただけるのはありがたいけれど、それが自分にとって価値があるかは別。
あぁ確かにそのとおりだ、改めるべきだな、と思えばすぐさま謝意を述べますし、何をおっしゃっておられるのかァー?と思えば殴り返したり(※反論)、それすらも得られるものがなさそうなら無視や放置、というスタンスに落ち着きました。快適。
そういえば思い出したのですが、「アンテナサイトに登録しているなら関連記事だけ書け」というコメントを頂いたことがあります。確かコロナウィルス関連の記事だった気がする。これも、その方のモノサシで「コロナと FFXIV は関係ない」だけなんですね。実際にはゲーム産業とコロナ禍は関係が大アリで、FFXIV は開発運営体制の変更に至るほどとなっています。この記事だって、直接のゲーム攻略記事ではないけれど、ゲームを通した体験を楽しむための指針という意味では関係があります。昨今は特に、時間を持て余した方が要らぬことをなさるケースも増えていますので警戒は厳にしたいですね、というお話はさておき。
「ゲーム」であったり「人生」であったりを、こんな感じのモノサシでもって楽しんだり何かしていますよ!と発信すれば、それに興味を持った方とお知り合いになれるかもしれないし。そもそもとして、私自身はこうした行動をしていることで 100% 楽しいので、不満や不足はありません。一緒に楽しめる方と出会えたら 200% になるだけです。せっしゃは加点思考なので。
……話のまとまりがなくなって参りましたので、そろそろ強引にこの記事終了でござる!₍՞◌′ᵕ‵ू◌₎
モノサシついでに余多話を一席。
「七十にして心の欲する所に從へども矩を踰えず」孔子齢七十の自顧の言ですが、
矩←まんまモノサシ(正確には曲尺)だそうで。
好き勝手な言動をとっても、社会的規範から外れることがなくなった、んだそうな。
詩学もとい志学から紆余曲折をへて、かの孔先生ですら晩年まぎわまで体得できなかった境地ゆえ、
逆に言うと、いかにそれが難しいことなのかな、と。
もう一席、こちらはリアル年齢を暴くのに使えるテクニック(オイ)。
齢六十の「耳従」、何と訳しますか?
「人の意見に反発を感じず、素直に耳を傾けられるようになる」←オッサン
ナウなヤンクグはこう教わってるんだそうです→「人のことばを聞くと、その細かい気持ちまでわかるようになる」
凡夫っぷーなせっしゃとしては、なんだかんだ研鑽は生涯続けていきつつ、ぼちぼち実入りのある折り合いもつけられたらいいなぁという思いがあります₍՞◌′ᵕ‵ू◌₎特にいまは、多様な価値観が実際の価値を問わず一定の価値を獲得する時代ですし、断絶しない程度に連携しつつ、それぞれのコミュニティでそれぞれが温室育ちになっちゃうのかなーなんて。
論語のソコはナウなヤング側の解釈で教わりましたが、せっかくですのでこちらからもひとつ!インドの思想にアーシュラマ(四住期)というものがあり、人生をよっつにわけたときの最後、老齢の段階を「サンニャーサ(遊行期)」とします。エゴを捨てるとか放棄やら放擲やらを行うタイミングを意味するのですが、色々ぶっとばしてざっくり言うと「惚けてなんもわからんから結果的にめっちゃ自然体だもんね」みたいなこと、という解釈もあります。だとすれば、耳順や従心の境地についても(孔先生自身は矍鑠としていたかもしれませんが)世間一般に当てはめる際にはインド的おおらかさの尺度で見たのほうが柔らかい世界なのかなーと思うのです、なんてよくわからないお返事になってしましたがそんな感じです!!!!