1. 随筆
  2. 6572 view|最終更新 21/09/15

ヨツユについて改めて考えたいと思う。

ドマ人として生まれながら国を売り、帝国人としてドマを蹂躙した「代理総督ヨツユ」。彼女の生涯は数奇でありながら、様々な世界の様々な場所で起きていることのひとつで。今回は、そんな彼女のお話。

紅蓮のリベレーターをクリアし、紅蓮秘話も目を通していて、ヨツユなる人物の生涯に思いを馳せた方にだけ伝わるような文章になっております。というのも、万人向けに解説を交えたものを書いてみたら二万文字ほどになりまして。それは長すぎるよねって₍՞◌′ᵕ‵ू◌₎自重した。

そんなわけで、本記事は紅蓮のリベレーターのネタバレを多く含みます。これまでに書いた同様の記事をクッションにして誤閲覧防止にござる!

はじめに。

本題へ入る前に。ヨツユを語るうえで外せないのは『花』の形容表現です。美しい所作を謳った「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」や、日本人女性の望ましい性質を表現した「大和撫子」などに含まれるように、花は女性をあらわす言葉として用いられます。ヨツユ自身も「倒れる」ではなく「手折れる」を使う等、印象付けは随所に。なかでも彼女を象徴し投影するのは、月下美人と彼岸花です。

月下美人

彼女の美しい黒髪を彩る、月下美人の花飾り。花言葉は「艶やかな美人」「儚い美」「強い意志」などのほか、英名 “Queen of the Night” から「快楽」ともされます。月夜の帳に花開いた彼女にうってつけといえましょう。月下美人はなかなか咲かない花としても有名です。栄養と手入れがしっかりしていれば年に数度咲くこともありますが、咲かない環境では一度も花開かずに一年を終えます。そういう意味では花も人間も似たようなもの。手入れや環境の整備がなければ、咲くのは難しいのです。

では、ヨツユはどうでしたでしょうか。彼女は水も与えられず、痩せこけた土地に生きるしかなかったのです。けれど、帝国の間諜としての環境を手に入れてから……わずかながらも腹を満たす栄養が手に入るようになってからは、少しずつ、その身を花と咲かせるための力を蓄えていたと考えられます。ただし、それはあくまでも『悪の華』として。

月下美人は儚さの象徴です。ひとたび咲けば、次に咲くのはずっと先。咲いたとしても、夜が明ければ花は落ちてしまいます。ヨツユが月下美人の花飾りを身に着けたのは、まるで自らの栄華が一炊之夢であることをわかったうえで、それでも尚、荒れ果てたドマの地を贄に一夜咲き乱れんことを望んだからではと思うのです。

彼岸花

ヨツユが蛮神ツクヨミと化したあと、彼岸花がモチーフとして描かれます。彼岸花は、花が咲いても実を結びません。この性質は徒労に終わる花と書いて『徒花』と呼ばれ、無益を言い表す慣用句でもあります。また、彼岸=黄泉=あの世を冠するとして、不吉な花とも呼ばれます。実際には彼岸の頃に咲くからとか、根に強い毒があって食べると彼岸行きだから、などが由来とされるのはさておき。

また、彼岸花は様々な別名を持ちます。いずれも大概不吉ですが、特に「捨子花」なんて別称はヨツユの境遇と重なります。もっともこちらも、前述の通り親が食べて死んだら子を捨てることになるとか、恐ろしい名前で子供を怖がらせて近づかせないようとかが由来っぽいのもさておき。

特筆すべきは、蛮神ツクヨミと化したヨツユ自身が彼岸花を掲げている点です。成してきたこと、ひいては自らの生そのものを彼岸花になぞらえているのか、ドマや反乱軍が実を結ぶことはないと嘲っているのか。どちらにもとれますし、両方の意味を込めていたかもしれないけれど、ヨツユは生涯その生い立ちと環境に苦しんできたことを思えば、自分自身を言っていたのではないかなと感じます。

ここに咲きたる月下美人は、我が身を送る彼岸花……!

蛮神ツクヨミの大技、月花彼岸花。ふたつの花の咲き様を、自らの生に重ね合わせていたのでしょうか。

蠱毒に咲いた仇花。

さてさて。まず、ヨツユは『悪』だったのか。……満場一致で悪でしょう。本人がそう認めていますし、あれを悪と呼ばずして何を悪と呼ぶのか。ただ、様々な冒険と人生を積み重ねた私とあなたは、なにかをただ『悪』と断ずる行為の無意味さを知っています。善悪は相対的でたやすく移ろいゆくのだと。互いに掲げる正義や理想を押し通そうとしあっているのだと。その先にこそ理解があります。共感はできずとも、理解はできるはずです。

『悪』とは。

集団としての悪と個人としての悪は、必ずしも一致しません。個人的な理由で人を殺めれば犯罪者ともなりますが、集団の大義や規範で人を殺せば、その集団においては英雄です。そんな英雄、どこかで見聞きしたことがありますね。はい、光の戦士です。

同じ殺しなのに扱いが異なるのは矛盾に感じられますが、実のところ『悪』とは行為の結果ではなく、動機や規模で定義されるからです。星の意志だったり複数の国家に対する危機だったり、仲間を助けるため、志を遂げるためなどの理由があれば、少なくともその当事者には『悪』となりませんよね。そうしておかねば自陣営がやられるだけになっちゃいますから。善悪はそんな打算の上にある点は忘れずにいたいですね。

とはいえそれだけなら、大概すべての行為は『悪』と定義できなくなります。『善』を定めるには『悪』も必要ですから、人心が乱れてしまいます。ゆえにここへ『公共の福祉』の概念を盛り込みます。すると、個人や私人などの単位が小さい関係性であれば、なにが『悪』なのかを定義できます。逆にいえば、国家間のような大きな関係性ではそもそも公共の福祉自体が競合して機能しません。エオルゼア諸国とガレマール帝国で蛮神に対する思想が大きく異なるように。キリスト教圏とイスラム教圏の思想が大きく異なるように。ゆえに、善悪は後世の結果論だったりもします。

というわけで、いち個人としてのヨツユは『悪』ですが、ドマ代理総督としては『悪』ではありません。そして個人レベルの『悪』は、その社会の常識とかとかで決まります。なら、社会自体が歪だったとしたら。身の伴わない虚言が道徳と語られていたら。一体なにが、世の『悪』と『善』を担保できるのでしょうか。

ヨツユの生涯は大きくふたつに分けられます。まずはドマ人として、そして帝国人として。なかでもドマ人としての半生にこそ「自らを見捨てた『ドマ』を滅ぼす」という彼女の理想と行動原理の源流があります。幼くして実親と死別し、養親からは虐待を受け、社会からも見捨てられ、自らの存在を否定され続け、果ては厄介払いとしてへ身売りまでされます。文章にすればあっけないものですが、実際には筆舌に尽くしがたい苦しみだったことは想像に難くありません。

廓、妓楼、花街について。

ゲーム的にもモラル的にも様々な問題が絡むこともあってかうまくボカされていますが、ヨツユは遊女や女郎と呼ばれる性的サービスを含む商売に従事していたと考えられます。紅蓮秘話でも最初は着物姿なのに、最後は肌が見える装いになっていたり。ゴウセツが「廓きっての女狐」と言ったり。身売りさせた金を元手に商売を……とか言う輩もいたり。それほどまとまった金額が動くのならば、尚の事。

クガネの二条花街。花街とは言いますが、日本最大の遊郭と知られた『吉原』と同じ構造です。

  1. 出入り口は閉じられる門ひとつ = 吉原大門
  2. 近くに赤誠組屯所がある = 四郎兵衛会所
  3. 表通りからは中が見えない = 五十間道

脱走できないよう、内側からは開けられぬ門。尋ね者の侵入を取り締まるという名目で併設された監視所。往来からは覗けない=偉い人が目こぼしをする理由作りとなる入り組んだ道。こうした民俗学も興味深いですよね。ちなみに吉原周辺は馬肉料理が発展したのですが、その理由も調べると納得だったり。

さておき、花街で働く女性すべてが売春をしていたわけではありません。体を売るのは娼妓、芸を売るのは芸妓と呼ばれました。裁縫師クエストのコトチョウやコトツル、事件屋クエストのチヨウメなどは芸子=芸妓です。とはいえ過去には花街も娼妓と芸妓が混在していたそうですから、『二条花街』は正鵠を射たネーミングといえますね。

現実世界でも口減らしや厄介払い、あるいは借金のカタとして、女性が花街や妓楼に身を売られることが多くありました。……ありましたと申しましたが、現代でもあるのでしょう。自らの意思によらず、尊厳を辱められる苦しみを思うと、暗澹たる気持ちになります。ヨツユもまさにそうした境遇だったわけです。

かような扱いの積み重ねにより、彼女は『ドマ』という国の在り方と、そこで安穏と暮らす人々への恨みを募らせます。けれど、それを晴らすだけの力なんてひとりの遊女には得難い代物……のはずでした。なんの因果か、流れ流れて辿りついたこの世の果てで、己が欲望を満たしうる立場を手に入れます。ドマの代理総督です。

ゼノスに任ぜられる形で実権を手にしたヨツユは、ドマの『粛清』をはじめます。稲に水ではなく血を吸わせるかのような粛清。それはゼノスが望んだことでもありました。ゼノスは文字通りの戦闘狂です。粛清を跳ね除けるほどの強者が生まれること。そしてそれを自らが『狩る』こと。この私欲だけでドマとヨツユを利用したのです。いわばドマが牧場でヨツユが牧童。支配だ圧制だではない、憎悪の培養地です。

しかしヨツユもまた、自らの腹を満たすため、自らを見捨てた国を踏みにじるために、ゼノスから託された務めを利用しました。利害が一致した格好ですね。当然ながら、そこにドマの民の意志が考慮されることなどなく。代理総督に君臨したヨツユは、疑心と怨嗟の蠱毒に成り果てたドマで、民の血と涙を絞りだしては吸いあげる仇花と咲き誇ったのです。

孤独に咲いた徒花。

とはいえ、ヨツユは将でも官でもありません。草原のアウラ族や『暁』と手を結んだ反乱軍に打ち倒されます。あるいは自らを悪だと自認していた以上、その帰結も当然であったのかもしれません。その後、まるで失われた幼少の頃を取り戻すかのように少女の心へ戻りながらも、最終的にはふたたび帝国側につき、蛮神ツクヨミと化すも敗北。命を散らすこととなりました。

大義だ、志だ、あるいは復讐だと、何かを心に刻んだヤツには、破滅しかないのさ!最後まで、せいぜい火花を散らしてもらおうじゃないか。

まるで自らのことを独白しているかのよう。ドマへの復讐を心に刻んだヨツユは、こうなる定めであることも理解していたのでしょう。

記憶を取り戻したヨツユが語ったように、忌まわしい憎悪を忘れていられたなら生きられたでしょう。でも、恨みに塗り潰された人生を思い出してしまった。悪性こそが規範の人生に立ち返ってしまった。そしてそれは最初に恨んだドマ人、義弟アサヒの仕掛けだったと知ります。おそらくこの時、今度はアサヒに利用されることを悟りながら、その策を逆手に取って刺し違えることを目論んだのではと考えます。

最終目標がアサヒである以上、光の戦士との戦いは通過点です。ツクヨミとして光の戦士を倒せたならば、次に相対するのは帝国軍……つまり全権大使のアサヒです、その段でアサヒの首だけを狙えばいい。光の戦士に倒されたのなら、最後の力を少しだけ残しておき、自らの死を確認にきたアサヒを道連れにすればいい。

ただし、成就にはふたつの『賭け』が必要です。蛮神と化した際に自我を失わずにいること。光の戦士に敗北した場合、とどめを刺されずにアサヒを待つ時間があること。どちらも確証なんてない、文字通りの命賭けです。菊の花、菊の花、あけてうれしい菊の花。誰が取るのか菊の花。

そして見事、ヨツユはこの賭けに勝ちます。心の底から自らを案じてくれたゴウセツの手を振り払い、すべての始まりとなった『家族』のアサヒを討ち取りました。自ら望んで孤独となったヨツユは、最期の最後、実を結ばぬ大輪の徒花を咲かせたのです。

ちょっと箸休め。

一気にきましたので、小話で休憩₍՞◌′ᵕ‵ू◌₎

和歌

彼岸花 闇の現に咲き示す 人より堕ちて 悪しき神たれ

ツクヨミが大技「月花彼岸花」を繰り出した後に詠む歌です。闇の現とは暗闇のうちにある現実のこと。和歌では「射干玉」が掛詞とされますが、ここでは徒花の意味合いを強く含んだ彼岸花を前においています。ヨツユの生きた現実がいかに光なき世界だったかを窺えると同時に、以下の『夜見』にも掛かっているように感じます。そして、人より堕ちて神になるという表現もまた印象的。昇華したのではなく、堕落して降りた神であると。

ツクヨミ戦で得られる刀が奈良~平安時代の特徴をしていたり、お座敷遊びに使われる扇子、遊女の格を示す道具でもある煙管などなど、色々なエッセンスが散りばめられているのも面白いですね。

夜見

ヨツユはツクヨミとなるその刹那、以下のように語ります。

これよりこの地に、明けは来たらず。我が腹より満る闇に呑まれ、とこしえに夜見の国となろう。そこにあたしは輝く……冷え冷えとした月のごとく!!

夜見の国。よみのくに。ツクヨミの国ではなく。一般的には「夜見≒黄泉」とされますが、夜見と黄泉は別モノです。端的に申し上げれば YoMi と YoMo で音が違います。FFXIV 設定チームはそのへん抜かり無い印象を個人的に抱いているため、ここでも区別して扱います。もちろん、ダブルミーニングはありそうですけれどね!

現実世界では、かつて出雲に夜見島がありました。出雲は八百万の神が集い、ツクヨミのモチーフであろう月讀命とも縁深い地です。そして漢字単体で捉えれば「夜を見る」、つまり「冷え冷えとした月」にも連想が働きます。とこしえに続く闇の現で、悪しき神となったヨツユが夜を統べるのです。

ほか

月花彼岸花というネーミングがイイとか BGM の歌詞で「寄る辺の月」が神霊を呼ぶための「寄倍水」にかかっているとか「遺せしは抗いの名残のみなれど」の「なれど」に込められた一念とか、いろいろありますが、そのあたりは余白余韻として残しておきましょう₍՞◌′ᵕ‵ू◌₎

おわりに。

彼女の生涯と同様、この記事でも最後に触れようと決めていたのが、ゴウセツとツユのこと。ドマ城崩落の後、ヨツユは一時的に記憶喪失と退行を起こしますが……これは果たして幸福だったのでしょうか。あるいは後に続く不幸を色濃くするだけだったのでしょうか。考え方で答えが正反対になりそうです。そしてきっと、どちらも正しいんですよね。

それでも敢えて申し上げるならば……その一瞬一瞬に幸せがあったのなら、きっと幸福だったのだと思います。過去でも未来でもなく『いま』にある等身大の幸せを感じられているのなら、それを幸福と言うのかなと思います。本懐を果たしたヨツユは今際の際、

あの柿……おいしかった……かな……

と、わずかに微笑みながら呟き、息を引き取ります。あの柿とは、ゴウセツに剥いて渡した柿のこと。それがおいしかったかな、おいしかったらいいな……と。あれほど僅かでささやかな日々であっても、彼女の心に一筋の光が生まれていたのです。それは野に咲く一輪の花のように。

人生を踏みにじられ、その復讐を果たすために悪の華と咲き、散っていったヨツユ。人の道から蹴落とされて踏み外しながら、悪しき神に成り果てようともあがき続けた生涯。その最期の瞬間は、生き地獄にあった一生のなかで、もっとも安らかな一時だったことでしょう。

まとめ。

ヨツユは許されざる虐殺に手を染めました。情状酌量の余地はあるけれど、それでも余りある悪逆を尽くしました。そのうえで、過酷な境遇、わずかな自由もなかった人生、そうした諸々から自らを解放するため、懸命に抗っていたのだと私は考えます。多くの命を犠牲に義両親と義弟まで手にかけた帰結は、優等生的にいえば不道徳の極みでしょう。けれど、そうした評価で『片付ける』のは、次なるヨツユを生む道ではないかと思うのです。

「死んで花実が咲くものか」と申します。ですが徒花は実を結ぶかわりに咲くもの。彼女の居場所は天になく、地にもなく、ただ獄の内にのみにありました。ならば実を結び種を残すほうが不適。ヨツユは自身が徒花であることを望んだのではないでしょうか。同じ境遇の少女が再び生まれぬように。

彼女が憎悪へ囚われる前に、誰かひとりだけでも、心から案じてくれる人と出会っていれば、歴史はまた違ったでしょう。でも、そうはならなかった。そうはならなかったのが、この歴史なのです。ゆえにこそ『ヨツユは徒花であった』と評せる世界を作っていくのが、その花を摘み取った者の務めなのだろうと、私は思うのです。

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