まずは最初に、いろいろとお断りしておきます。私はストーリー外で語られる内容を蒐集してはおらず、各地のパネルセッションや生放送などで明らかになった設定は存じ上げません。同様に、彼を好む・好まざる方の想像で描かれた人物像にも能動的には触れておらず、あくまで私個人が聞いて感じて考えた事を本記事で綴ります。無論、目に入った情報が無意識にインプットされている可能性はあるけれど、そんなゆらぎも含めてのお話。
また、整理をつけてから書き出したのではなく、整理をつけるために書き出していますので、文字数はとんでもないですし、話があっちこっちに飛んで散らかりまくることが予想されます。そのうえで読み物としておもしろい保証はひとっつもないし、あくまでもどこまでも「私の内にあるエメトセルクなる存在に整理をつけるための記事」です。チラシの裏に書いておけといわれれば(この記事に限らず世界の大半が)そのとおりですが、そこは自分でサーバ代とドメイン代を支払っているのでご容赦いただけたら!
そして私の解釈は私の解釈で、あなたのそれもあのヒトのそれも、間違いがあったとしても誤りではないと認識しています。各々が思うように整理をつけていくことが大事であって、過程として妄想を花開かせたり、想像を膨らませたり、自分の内側に掘り進んでいったっていいわけです。これは、そんな記事のひとつ。
……もういちどお伝えしますが、おもしろい読み物である保証はどっこにもございません。だいじなことなので二回いっておきます。それでも読むというのなら好きにするがいいさ!
Ascian Emet-Selch
漆黒のメインストーリーにおいて「お前の働きが良ければ仲間にしてやらんでもないぞ」とアメノミハシラ級の上から目線で登場し、同行することになったエメトセルク。紅蓮時代の終盤、ガレマール帝国の始祖であったと明かされていたこともあり、暁の面々にはすごぉーく警戒されていましたよね。なんせ、彼の言葉が偽りのない事実だったとしたら、いくつもの世界と星を自らの目的のために潰し、奪い、殺し、いまだ世界にくすぶる火種を振りまき続けているわけですから。アシエン陣営にいわせれば、「完全なるヒト」ではない、細切れに分割された「なりそこない」が我が物顔でのさばっているのだから、駆除しないといけないだけですけども。
……この距離感のまま単純に殴りあってきたのがこれまでのアシエンたちで、エメトセルクは違ったわけです。なりそこないなりに力があるようだから、価値を証明できるなら利用してやってもいいぞ、という口説きでしたけれど。ともあれ距離感が近づいて、良くも悪くもアシエン側の信条や想いの根底に触れた結果、影響や感銘をうけたり、自陣営に疑問を抱く人がでるのも当然です。断固たる決意のもと、果てしなく困難な道を踏破せんとする姿は実に魅力的。想像の及ぶ範囲だけでも、彼なりの苦労苦悩を窺えもします。
以前も書いたように、個人的にはすごく共感できるんです。程度も強度もまったく違うけれど、双方とも自陣営からみれば英雄、相手陣営からみれば反逆者という境遇の近似があります。過去をすべて忘れ、第一世界に到着してからに限っていえば、暁の面々よりもよほど一緒にいる価値を感じたとすらいえます。
ただ、個として共感も理解もするけれど、共存と同調はありえないんです。エメトセルクよろしく現人類に辟易し、水晶公が第一世界にいる理由や顛末を鼻で笑うことができ、人の紡いだ歴史や営みも無価値と唾棄するほど彼に心酔したならば、共存と同調もありえるかもしれません。それは「テンパード」と呼ばれる存在であって、そんなザマを彼が喜ぶとも思えないのはさておき、この絶望的なまでの相容れなさを根幹とする諸々が、彼を魅力的な存在にしたと感じています。手が届かないからこそ魅力的というアレ。
また、エメトセルクが現在のなりそこない共に絶望していたかといえば、そうでもない気はします。辟易してはいたけれど、絶望まではしていなかったのでは、と。細切れとはいえ「完全なるヒト」のパーツですから無碍にはできないし、アシエンの望む塩梅で決着するためには、なりそこない側も多少は気張ってくれないと、ウヌクアルハイくんの時のように失敗しちゃうわけで。手を差し伸べるような段階はとうに過ぎているけれど、視界に入ってもいない程ではない……なんてところでしょうか。
エメトセルクは、実際にどのようなベクトルかはわかりませんが、なりそこない共に期するところはあったのでしょう。特に、ヒュトロダエウスが「あの人と同じ魂の色」と評した冒険者については、特別な認識をしていたことは間違いないものの、エメトセルク自身がそれを明かすことは最期までありませんでした。これ、つまり「気付いてほしかった」のですよね。伝えて気付かせるのは本意ではないというか、自分で目覚めないと真の気付きではない!なんて感覚もわかるんです。思い入れがあったのなら尚の事。
……結果、気付かれずに終わったんですけどね。気付かせられていたら違っていたであろう結末を迎えたことも含め、厳しいことをいえば「気付かせられなかった」わけです。嫌ではなく厭だったり、ちょっぴり期待してみたり、やっぱりダメかとがっかりしてみたりと彼なりのゆらぎや葛藤があり、それを優しさと呼ぶか甘さと呼ぶかは自由ながら、光の戦士に対してはフェアであろうとしたのかな、とは感じます。
そして最終的な彼の評価は、あの旅路で変わる部分もあるものの、目的のために手段を選ばず、大量虐殺と表現することすらおこがましい「星を殺す者」であったことは、確かな一部として認識していたい私です。というよりは、自らの信念のために星を殺せるからこそ、魅力的であり得たのです。
One murder makes a villain, millions a hero. Numbers sanctify.
彼らはいくつもの星を殺し、「もとは自分たちのモノだから回収しているだけ(要約)」と語りました。ほか、彼らが語った彼らの都合がぼちぼち事実だったらば、回収には殺すしかなかった、奪う以外に成し得なかったというのも、なら仕方ないね、殺すしかないね、なんですよね。すべてを信じるわけにはいかないけれど、状況証拠を繋ぎ合わせればそうなるのもわかるし。
完全なるヒト様が永い年月で導いた結論が「星を殺す」だった以上、なりそこないが「なぜ殺した!」とか「もっと別の手段が!」みたいな問答は無意味極まります。そんなレベルはとっくに考慮済みでしょう、完全なるヒト様ですから。もっとも、考慮していなくとも我々の往く道を遮る不倶戴天の怨敵・御敵ですから、いずれにしても互いの都合で殴り愛。
そもそも、星を殺すのは悪か?というと、元々ひとつだった星を殺してしまうのは悪だけれど、いまは悪い状況を治療しているだけなのでセーフ、というのがアシエン視点。完全なるヒトの星がなりそこない共に簒奪されている現状、彼らにとってはいまのほうが不自然で不条理で不出来だから、キレイにお掃除しなきゃならないし、なりそこないの母星がひとつ潰えたところで別にっていうね。
それを役割として担う羽目になったのは大変だなと同情しますが、手を下してきたのは彼ら自身で、嫌々ながらとか不本意ながらと弁護しては失礼なほどの熟練者揃いなわけです。アシエンはアシエンなりの熱意と覚悟のもと星を殺し、なりそこないはなりそこないなりの決意と信念のもと「知ったこっちゃねぇよ」と殴り返してきた歴史があるわけです。
もちろん、ヒュトロダエウスが語っていたように、エメトセルク個人が一番の被害者かもしれません。使命だの業だのといった言葉では片付けらないブツを背負わされたのは、同情を禁じえません。が、それは彼らアシエン陣営の都合であり、我らなりそこない陣営の都合とは食い違います。
けど仕方ないんですね。説明されたところで「そうかわかった、じゃあ完全なるヒトのために、かわいそうなエメトセルクくんのために死のう」と思える者たちばかりでないのは確かで、ゾディアーク召喚のために半数が命を捧げたらしい古代人となりそこないの間に横たわる自己犠牲精神や高潔さやらの落差はいかんともしがたい。かくいうゾディアーク召喚についてはアシエン都合の視点しかない点はさておき、いずれにしても、それぞれの陣営に言い分があり、「わかりあえないことがわかっている」関係なわけです。
One brings shadow, one brings light.
そのあたりを含め、真正面から殴り合って負けたほうが「反逆者」というのは、関係の結末として妥当だったと評価しています。仮にFFXIVがマルチエンドストーリーだったとしても、私は必ずこの結末を選んだでしょう。あの道程があったとしても、彼を……認めることはできます。受け入れることもできますが、並び立つことだけは、できません。並び立つことができないから対峙して、雌雄を決するしかなかった。そこをばっちりと描写していただいたおかげで、このように今も響きつづけているわけです。
たとえば「両者が手を取り合う」「エメトセルクが死なない」あたりの結末を夢想した方は多そうです。それを決して否定はしないけれど、上でつらつら書いてきたように、アシエンと非アシエンは不倶戴天かつ呉越同舟が基本で、今回のエメトセルクの振る舞いが特異であっただけ、と私は認識しているんですね。エメトセルクも、なりそこない側に寄り添う意向があったわけではなく、アシエンに与するのなら考えてやらんでもないという姿勢は一貫しています。であれば、この結末が実際に変わることは困難かなって。
どちらかが「自分が自分でなくなる」「背負ってきたものをすべて捨てる」ことができれば、ふたりが手を取り合う未来はあり得たかもしれません。エメトセルクが冥きに眠る同胞をすべて見捨てる、冒険者がまさにいま横に並び立つ戦友、託されてきた想いなどをすべて見殺しにする、のどちらかです。……世界でふたり、あるいはすべてを捨てたひとりだけが幸せな気分に浸れるお伽噺。それはそれでアリですし、想像や妄想には軛などありませんけどもね!
イマジナリーエメっさんはさておき、彼が死なない……というより、ゼノスの如く復活する可能性は、実現させるかは別として、存在自体はするでしょう。でも、そうなったら、なんというか、台無しですよね。覚えておく必要なかったじゃん。また出てきてんじゃん。って。……できたら、そうはならないでほしいな。
※追記…5.3 でそれらしき再登板が一瞬ありましたが、私的にはとてもいい演出になっていると感じました。
Remember us… Remember… that we once lived.
光の戦士は、エメトセルク……ハーデスという闇を打ち払いました。破れたハーデスは、光の戦士のなかで溢れつつあった「光」を「冥途の土産」とし、自らの「闇」でもって拭い去ったのだと私は認識しています。
闇の使徒が、冥きに眠る同胞たちに捧げる光として。
彼は単なる破壊者や殺戮者ではなく、彼の守りたいものを守らんとしていた守護者であり、光の戦士もまた同様に守護者であると理解していたからこそ……そして「あの人」が切り開き、手を伸ばした未来であるからこそ、「そこまで言うなら遂げてみせろ」の想いがこもった、最期の表情だったのかなと思うのです。
これから明かされる真実や、光に照らし出される事実はあって、本当にこの道を歩んで良いのか?間違っていたのではないか?と揺らぐこと、きっとあるんですよね。そんなとき、最期に紡がれたあのことばが浮かぶのだと思います。
「『なりそこない』が紡ぐ、不安定で不完全で怒りと悲哀に溢れ、だからこそ何にも代え難い喜びと幸せに満ち溢れる世界のため、アシエンたちの想いまで飲み込んで、薙ぎ倒そうとも前へ進む」と決めたからこそ、ハーデスと、彼が幾星霜も携えてきた同胞たちを、私は “殺した” のです。その覚悟を忘れるなよ、その決意を覚えていろよ、と。
それは、魂の糧や拠り所となる福音か。進むべき道を縛る呪詛か。いまはまだわかりません。……でも、まあ、やったことは、やったことだし。今までに食べたパンの数は覚えていられないけれど、特上寿司なら、なんとか覚えておける、と思う。そして、ハーデスはたいへん上等な鮨を握ってくれた大将でした。
鮨処・蘆苑。
……なんだ、この終わり方は。まったく、厭だ厭だ……。
エメトセルク復活だけは本当に絶対やらないでほしい…
敗れ去って消えるところまで含めての魅力だと思うし
イイ感じに満足して戦闘狂らしく死んだのにホイホイ復活してきたゼノスみたいにはならないで…!
いらっしゃいませ!
エメトセルクは、交わった役者たちの「重み」が違いますよね。水晶公やアルバートを助演とした檜舞台、ヘタにひっくり返そうものならちょっとヤバそうです。(語彙力
ゼノスきゅんは、真夏の夜の湿気のごとくジットリまとわりついてくる底気味の悪さがありますね……。
でもたぶん、本人としては自刃の瞬間も「心昂ぶる闘いが出来て一片の悔いなし!」だったと思うんです。
それがなぜか生き返れちゃったもんだから、ネジが飛んじゃった、みたいな。あれはあれで被害者なのかなと思うし、まぁそれはそれとしてもう一度ころころしてあげないとですね₍՞◌′ᵕ‵ू◌₎