たとえば私。アウラちゃんが好きです。エオルゼア内はもちろん、二次創作アウラちゃん達も。
ただ、特に二次創作において、作者さんの好みか、需要に合わせてか、おっぱいの大きなアウラちゃんを見かけることがあります。
私は、スレンダーなしなやかさがアウラ女性の魅力と考えているため、巨乳アウラちゃんは、好みではないのですね。
でも、だからといって、
「公式(キャラクリ)ではそこまで大きくできないから、それはおかしい!」
「女性性の特徴を強調することでうんたらかんたら」
などとは言いません。表現の自由……というのもモチロンですが、私はそういう表現を好まないけれど、好む方がいることも理解しているから。
これが、本記事タイトルである、共感せずとも理解すること。
……アウラちゃんで例えましたが、他のことでも同様です。共感できないから理解もしたくない!という振る舞いを、理解するための営みを放棄してしまうことを、私は「思考停止」と呼びます。
感性が受け付けなくとも、理性でならば進められるモノがあります。大概において、感性に縋り理性を放棄したとき、状況は悪化します。
感性が理性を上回ることが悪、なのではありません。上回った結果、相手を感情のまま否定したり、尊重すべき違いを踏みにじり、非難することが悪なのです。
そう、共感できるかは、別問題なのです。
私もあなたもあの人も、それぞれ別の存在です。それはそれは、いろいろなモノやコトが違います。生い立ちから生活環境、身体的特徴から主義主張まで、同じ部分のほうが少ないことでしょう。
感性とは、そういった諸々全ての上に成り立つモノ。だから、そう簡単に共感なんてできない、と思っています。もちろん、想像力を駆使して「寄せる」ことはできるけれど、心底の共感を人生で何度できるものだろうか、とも考えます。
……というあたりも含めて、共感することは難しいけれど、理解する、理解していく姿勢が大事だと思っています。
そして、理解を進めるためのツールが、言葉であったり、表情であったりするわけです。
オンライン上では、選択肢が限られてくる部分となるものの、制限のなかで、効果的に手札を切っていきたいところです。
ケスティル族は、「言葉」の力を認識し、そして負の側面を恐れたからこそ、沈黙の民となりました。
私は……言葉という手段が持つ負の側面も怖いけれど、それ以上に、言葉の力を信じているのかもしれません。
まだまだ使いこなせていないし、どこまでいってもこの感覚は抜けないだろうけれど、この力をできるだけ上手に用いて、いろいろなことの理解に役立てていけたら、と思っています。
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