1. 随筆
  2. 1080 view|最終更新 20/08/25

過去を明かす者、ときの者に非ず。

Patch5.2 で実装されたストーリークエスト「汝、英雄の眠り妨げるは」にて語られる、ファノヴの里に伝わる『過去を明かす者、ときの者に非ず』という諺。本日は、私のお気に入りフレーズを紐解く記事です。5.2までのネタバレを含むため、うっかり見回避のために適当な画像を並べてクッションにするでござる!問題ない方のみ下へお進みくださいませ!

 

 

まずは原文から。

我ら護り手が遺跡を護ってきたように、ロンカは過去から受け継がれたものを大切にしていた。しかし、だからこそ、戒めを込めた、「過去を明かす者、ときの者に非ず」という諺を持つ。その意味はこうだ……過去を読み解いたつもりでいても、読み解いているのが今を生きる者である以上、今の観点や願望が入る、ということ。

確かに、一理あるわね……。私たちは幻影都市で「終末」を目にしたけれど……そこで感じたことには、私たちの常識や思想による影響が、少なからず入っていたはず……。エメトセルクが護っていた真実を正しく継いでいくのは、存外難しいことなのかもしれないわ……。

補足: 英語版での表現について。

日本語版だけでなく、英語版にも同じシーンが存在します。両者間でニュアンスの違いなどを照らし合わせれば、また違ったものが見えてくるかもしれません。というわけで以下。

“History is learned, not lived”. We have always protected the tales of Ronka, just as we have protected this place. But we are mindful of what our mothers taught us. We see the past through our own eyes, and speak of it with our own words, thus do we come to understand it, in our own way. But this is not the same as remembering.

Your mothers were wise. Though we witnessed the Final Days. our impressions could not fail to be colored by our own experiences and expectations. Those who lived through it would have perceived the event quite differentrly. We must bear in mind that it is no simple matter to keep the truth alive, or it will die with Emet-Selch and his kin.

より具体的に「私たちは、自らの視点によって物事を見、自らの言葉によって伝えるものを理解する。しかしそれは、記憶される内容と完全に一致するものではない。」と表現されています。そのあとのマトーヤの姐さんも「真実を覚えておくのは簡単な問題ではなく、あるいはエメトセルクとその血族が死んだときに、真実も死んでしまったのかもしれない」と語っています。それほどに、語り継ぐのは困難であると。

ときの者

「ときの者」をひらたく言い直せば「その瞬間に生きていたひと」。過去の出来事を見出したり伝えたりする人は、その過去を生きていた人ではない……なんて意味合いになります。体験者なら「その瞬間に生きていたひと」に該当はしますが、その瞬間から先も生きた以上、その瞬間からは少しずつ乖離してしまうのです。詳しくは後述します。

人間、頭ではわかっていても、いま時点の判断基準や価値基準のモノサシで考えてしまいがちです。なんせ私達は「いま」に生を受けていますから。でも、たとえば百年前。大正時代の平均年収は500円を下回ります。コンビニのお弁当をひとつ買えば一年がおしまい。……なんて書くと、そりゃあ今と大正では時代が違う!と突っ込まれるでしょうが、つまりそういうことです。

文化や産業の発展度合い、人権などを筆頭にした権利意識などなど、『いずれ菖蒲か杜若』。必ずしも現代が優れてはおらず、優劣序列は慎重になるべきとはいえ、わずか百年で、人の世は様変わりするのです。もっと遠い歴史のお話でも、身近な日常であっても。『男子三日会わざれば刮目して見よ』。

重要なのは、過去から継承してきたものを尊重するために、この諺が受け継がれている点です。「私達が継いできたのは紛れもない真実で正しいものだ!」と強弁することもできたでしょう。しかし、誇り高く美しいロンカの護り手たちは、自らの立場に驕ることなく、耳心地の良い理想に逃げることなく、悠久の歴史と知恵を護ってきたのです。名実ともに「護り手」と呼ばれるべき『柳絮の才』の血脈といえましょう。

過去を明かす者

過去に立ち返ることは叶いません。どうしたって伝聞になったり、おぼろげな追憶になってしまいます。ありのままの過去を追体験することはできないのです。エオルゼアでは「超える力」を有する一部の者は追体験をできるような描写もなされますが、あれが本当に写実的な真実かは確かめようがありません。自らの体験すら、自らの視点や願望によって歪み得るのですから。

そう、たとえばアシエンたちの宿願であったゾディアークの復活。「なりそこない」は知りえない、忘れてしまった星の歴史を知る『海千山千』の彼らこそ、真に正しい歴史を継ぐ者のようにも思えます。しかし、彼らの語る歴史には、必ず彼らの視点と願望が含まれているのです。『鰯の頭も信心から』と申しますが、果たしてそれは、真実の正しい歴史と呼べるのか。

「正しさ」とは何でしょうか。「真実」とは何でしょうか。

エメトセルクやエリディブスたちが語った歴史は、彼らの視点では正しい真実です。同様に、私達が認識してきた歴史もまた、私達の視点ではまごうことなき真実です。つまり、さまざな個が選択しうるすべての立場は、それぞれの主観と願望に染められた根拠に依って存在し、そのいずれもが各々には正しい真実といえます。『十人十色』で『千差万別』のぜんぶが正解。でもそれだけでは『船頭多くして船が山に上って』しまいます。ゆえに、そのときの主観群から最大公約数的な価値観を創出し、時代や歴史と名付けられるのです。もっとも、その時代を後世に語り継がんとする内容自体に語り手の主観が……というのは、いわずもがなの『堂々巡り』で。

そんなわけで、正義やら真実やらというブツは、行き着くところ各自のエゴとポジショントークの結晶です。時代や場所が変わればいくらでもひっくり返り、なんならひとりの人間の内ですら移ろうものです。……という認識を持ったうえで。揺らぐものだと理解したうえで。それでもなお、受け継いでいくべきと信じられるものを、『諸行無常』ごと携えていく姿勢を垣間見られるこの諺を、私はとても好ましく感じるのです。同様に、進歩と退化のどちらにしても、なにがしかの変化が生じます。確定した解だと思っていたことが後年の研究により覆される事例も、枚挙に暇がありません。そのように、手が届かないものと頭では理解しつつ、それでもなお普遍的な「真実」に手を伸ばさんとする姿も、ヒトがヒトとしてあるために大切な姿勢なのでは、とも思うのです。

そんな感じで

諺の解釈は受け取り手によって様々です。私とおなじように捉える人がいれば、汲み取るアングルの異なる方もいるでしょう。同じ由来や由緒を耳にしても、そこから浮かぶ風景や感情が同様とは限りません。であればこそ、言葉を重ねることが持つ意味も増すのかなぁと考えたり。そんなこんなで、この諺自体も好きだし、諺という概念も好きなんです、なんて記事でございました!

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コメント

    • 名無しのウソウソ
    • 2020年 8月 25日 7:48am

    こたびも大変含蓄の豊かな記事にございました。
    しれっと「記事の概要」(タイトルに添えられたキャッチ―な一文)に銘文を
    仕込んでこられるので、アンテナサイトからいらした方は再度ご確認されることをオススメいたします。

      • 松乃雪
      • 2020年 9月 04日 7:59am

      ひすとりぃ……₍₍(ง˘ω˘)ว⁾⁾

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