1. 随筆
  2. 488 view|最終更新 20/10/13

何かを褒めるときに何かを貶すのは得策ではないというお話。

たとえば。「FFXIVはこんなに楽しくおもしろい!それに比べて○○は~」なんて物言いをする方がおられます。発言の意図がどこかによりますけれど、基本的に得策ではありません。いろいろありますが、大きくふたつ。

貶されたものを好きな人もいるよ!

私やあなたがふぉーてぃーんちゃんを好き好んで遊んでいるように、比較対象として貶されたゲームを好き好む人も存在します。その人にとっては、自分が楽しんでいるゲームを貶されたわけで、かなしい。純粋なゲーム批評としてならばまだ筋も通り得ますが、比較対象のダシに過ぎなかったとなれば浮かばれません。

ダシにされた側は、自らを踏み台にした者と、そうして持ち上げられた対象への悪感情を抱きます。あわせて、以下で言及するように「そういう表現をする人だったのか」と思われ、同志だった人からは見限られます。周囲に残るのは、その発言同様、何かを貶す癖のある人だけ。類は友を呼ぶのです。

( ´꒳`)そういうのはちょっとさみしいとおもうんだー。殺伐環境を好む人もいるのかもしれませんけれどー。刺々しい世界を望まないのならば、やめたほうがいいとおもうんだー。

「そういうレベルの表現をする人」と思われるよ!

何かを褒めたいのならば、褒めるだけでいいのです。別の何かを貶したり腐したりする必要はありません。むしろ、不純物を混ぜ込むことで、褒めようとした対象もろとも汚しかねません。翻って言えば、そうした表現に手を染める人は、そのデメリットに思い至っていないと自己紹介しているようなもの。

そんな自己紹介を目の当たりにした周囲の人間はどう考えるでしょうか。端的かつ多少乱暴に言えば、こうした「上げ下げ」がもたらすモノを理解する人からは距離を取られます。汚れた川から魚や蛍がいなくなるように。

もちろん、他人を気にするあまり自身の発言を捻じ曲げるのも不健康ではありますけれど、一時のストレス発散や八つ当たり的な感情で吐き出す対価としてはなかなか大きいと言えましょう。全人類の全事象へ配慮することはないけれど、不要な火種を蒔く価値があるのかを考えることは大事。

脱線: なぜそのような表現をするのか。

1. 比較した際の “高低差” が大きいほど評価されると思っている
2. もともと「褒める」ではなく「貶す」をしたい

他にも色々ありそうですが₍՞◌′ᵕ‵ू◌₎

1については、いささか近視眼的に感じます。そのうえ相対評価で論じるのですから、感覚の異なりや意見の食い違いはいくらでも出てきます。あるいは、過激な表現も含めて、話題になろうとしているのではと疑るケースもあったりして。2については……のーこめんとでござる……(ृ ‘꒳’ ृ)

では、どうするか。

「そういうのよくないとおもう!」だけでは学級会のお気持ち表明に過ぎませんので、ではどうするべきかのご提案にござる。

物事を絶対評価すること。

絶対評価。対義語は相対評価です。つまり、相対評価はできるだけやめておくことで、不用意で安易な上げ下げに手を染めずに済みます。相対評価って、簡単です。それぞれを比べてどちらが良いか、だけですから。二つの球を持ってみてどちらが重い、あるいは同じくらい、程度の精度でも評価とできます。

一方で、絶対評価をするには準備が必要です。重さを量る秤、大きさを測る定規などにより、それぞれの定義で評価しなければいけません。可能な限り共通の要素を採取できるよう、様々なパターンを用意しておくことも重要です。相対評価と比べれば、準備も運用も手間がかかります。

なかでも一番大変なのは、物差しを自分のなかに用意することでしょう。他者の評価ではなく、自分のなかに積み上げた価値観から導かれる評価基準。ただただ楽しいのではなくて、なにゆえに楽しいのかを説明しうる礎。これを用意することが必要で、逆に言えば、それを用意しえないからこそ、相対評価でお茶を濁すのではないか、と考えたりするせっしゃです。

そんな具合で大変な「マイ物差し」の用意ですが、これがあると捗ります。たとえば、他人に惑わされることが減ります。自分のなかに評価基準ができれば、他人もそれを持っているかがなんとなく伝わってきたりします。よってこれまた逆にいえば、そういう基準がない人間もふんわり分かってきます。それを理解したうえで、しっかりと自らの評価基準で見定められるまで余計なことは言わないでおこう、という姿勢も身につきます。

何より、自分の価値観を養っていくことができます。誰の顔色を伺うでもない、誰の言葉に惑わされるでもない、自らの判断の根拠を自分のなかに持てることって、おもいのほか気持ちがいいものです。

絶対評価をしていくデメリットは、一件ごとの評価に時間がかかる点と、他者との共有がしづらい点がくらい。もっとも、これはこれで、拙速な判断を回避できたり、曖昧な共通認識ですれ違ったまま進むことがないメリットになったりします。なので結局、絶対評価できるようになると良いよ、というお話。……もちろん、ある種の業として、絶対評価をしていたとしても、ついつい他者と見比べてしまう人もいますけれどね(ृ ‘꒳’ ृ)

おわりに

世間ではやれ断捨離だノマド(ちょっと古い)だのと持て囃されますが、持たなくても良いものと、持ったほうが良いものは、人それぞれです。自分の価値観なんてなくても借り物でいいじゃんという方は、無理に絶対評価を試みる必要はありません。相対評価の精度を高め、様々なアングルを取れるようにすればいいだけ。

ただ、自分の価値観を養っておくと、上記のとおり色々と応用できたり、思わぬところで役に立つのも体感としてあります。そしてきっと、さまざまなものが相対的に比較できる時代だからこそ、絶対評価のできる物差しを持っておくことが意味を持つのではないかな……と思うせっしゃでございました!

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