先日公開されました、ファミ通でのインタビュー記事。拙者はああいうのを楽しみに取っておくタイプなので前編公開時はスルーし、後編が公開された際に読みました。結果『よしだと解釈一致』を確認しました。つまり私はプロデューサーディレクターだった……?
『FF14』ネタバレ全開の『漆黒のヴィランズ』秘話を吉田P/Dが赤裸々に語る(前編)
『FF14』ネタバレ全開の『漆黒のヴィランズ』秘話を吉田P/Dが赤裸々に語る(後編)
というわけで、一致した場所などをピックアップのうえ、FFXIV プロデューサーディレクターである私からの深堀り記事をお送りします。
クリスタルタワー
クリスタルタワーシリーズのシナリオのラストシーンで、ネロが小型のカウンターを崖に投げ捨てますよね。ネロが去った後、それが何かを検知しますが、じつは『漆黒のヴィランズ』で光の戦士が拾った、光の戦士を召喚するための座標としての機械に反応していたのです。もちろん、当時はさすがにそこまで見越して作っていたわけではなく、ネロが捨てたカウンターの反応は、いつの日か新しいレイドダンジョンを作ることなったときに備えたものでした。
漆黒のヴィランズへの導入部といった印象のストーリー最新パートで「クリスタルタワーの装置」を探すこととなりましたが、クロニクルクエスト:クリスタルタワーの最終カットムービーにおいて、例の測定器がタワーの麓のほうで反応している描写があるンだよ、ガーロンドォ…… pic.twitter.com/i8SJkkmTJ6
— 松乃雪 (@Matsu_no_Yuki) April 10, 2019
「もしかしてネロの投げたあの機械が!?」と言うご意見を見つけて、「あ、そう思ってくださっている人がいる!」と(笑)。
₍՞◌′ᵕ‵ू◌₎拙者の呟きみた?よしだ?
以前から申し上げていますが、FFXIV は伏線の処理が上手なんです。言葉を悪くいえばこじつけの達人。褒めてます。オンラインゲームの楽しいところもココで、完結した!終わった!と思ったことからすらも続きが紡がれ得ます。まさに『覚えて』いればこそ楽しめる物語ですね。
いいひと
──この流れであえてお聞きしますが、『漆黒のヴィランズ』のシナリオに足らないところがあったとすれば、どのあたりでしょうか?
うーん、これはいまでも悩んでいるのですが、『漆黒のヴィランズ』には“いい人”しか出てこないなあ、と……。というか、ものわかりがいい人が多い。
(中略)
でもそれも、何もかも環境や状況が悪かったのだ……すべては割り切れないけれど、いまは大局を見よう。トリストルはそう考えたのかもしれない、そういう人物なのだろう、と解釈しました。『漆黒のヴィランズ』という物語のテイストはこれでいいかな、と。
漆黒ストーリーにおいて、徹頭徹尾相容れなかったのはドン・ヴァウスリーくらいではないでしょうか。彼もその生い立ちを知れば情状酌量があります。最後まで命のやり取りをしたランジート将軍やエメトセルクなども、それぞれの譲れない部分はありつつ、こちらを認める度量がありました。
ルナル、ライナ、リーンたちも、非常に物分りがよく、全編を通して物語の澱み……吉田氏が言うところのトゲを感じさせません。ルナルはちょっとわがまま言ってたね₍՞◌′ᵕ‵ू◌₎かわいい。違うそういうお話じゃなくて。
最後の、漆黒のヴィランズという物語のテイストはこれでいいかな……が解釈一致。紅蓮のリベレーターは、解放の旗の下に集った者たちの群像劇でした。様々な立場を見聞きすることで生まれる種々の葛藤。それでもなお大義のために……という。割り切れない面も多くありました。
漆黒のヴィランズは、譲れぬ正義がぶつかりあうお話です。妥協点が存在しえない、不倶戴天の衝突。であればこそ、アシエン陣営に相対する「なりそこない陣営」は和衷協同する必要がありました。その気運を高めるために、それぞれのピースはこうあったのだろうと思っています。
読後感を含めて考えられていると感じていましたし、そのうえで言及があったトリストルのシーンでは若干のご都合主義的な展開を感じたのも事実。その違和感を吉田氏も同じく感じていたのだなぁという解釈一致。
瓜
──『漆黒のヴィランズ』からパッチ5.55までのメインシナリオの中で、吉田さんがもっとも気に入っているシーンは何ですか?いちプレイヤーとしてでもいいですし、開発を代表してお答えいただいても構いません。
ある意味僕はいちばん最初のプレイヤーのようなものなので、ひとつを選ぶのは難しいです。それでもあえて選ぶとすれば、作り手としての思い入れもありますが……。『漆黒のヴィランズ』で言えば、ウリエンジェがリーンに語り掛けるシーンでしょうか。
(中略)
ようやく、自分の本心を話してくれるようになりました。「私は人の群れの中で生きるのが苦手でしたので、これを思い知るまでに、時間がかかりすぎましたが」とまで言わせてあげられるキャラクターになりましたし、そこまでの舞台を作れるゲームになったと実感できたので、感慨もひとしおでした。
例えば蒼天でのアルフィノ、紅蓮でのリセなど、各章で暁メンバーも成長を見せてきました。そう考えれば、漆黒はウリエンジェとサンクレッドの物語だったのかなと思います。ウリエンジェは「ミンフィリアを第一世界へと送った張本人である」という自責の念が、サンクレッドは「妹と娘の絆」が昇華できたのだろうと。
ウリエンジェがリーンに向けて「自らの言葉で表す意義」を伝えながら「私も気づくのが遅くなりましたが」と少し寂しげに微笑むところ、占星術師ジョブクエでレヴェヴァちゃんが語る「『運命を切り開く』存在としての占星術師」の概念や、ムーンブリダの一件にもリンクしていると思うんですよ
— 松乃雪 (@Matsu_no_Yuki) May 29, 2020
このセリフ、ウリエンジェがこうした柔らかい表現をするようになった、できるようになったことにあのまっすぐだったムーンブリダの存在を感じずにはいられないんですよ
— 松乃雪 (@Matsu_no_Yuki) May 16, 2021
ウリエンジェの成長は、ムーンブリダの存在と喪失が大きなポイントだったことは想像に難くありません。まっすぐな彼女の生き様が、自らを本の虫と呼んだ彼の人生に新たな風を吹き込んだのです。紅蓮編でもアリゼーとの関わりなどで兆候はみられましたが、実を結んだのはまさにこのシーンでしょう。
そういう意味で、漆黒の物語を象徴するシーンだったと感じます。解釈一致。
「さよならだ」
サンクレッドとフ・ラミンのアシリアへの思いは、確かに“お兄さんや母親代わり”です。サンクレッドとしては、アシリアは家族なのだから、彼女自身の願いを最大限に尊重すべきで、自分がいくら悲しかろうが最終的には本人の意思を尊重し、その想いを守ってあげたほうがいい……それが家族というものだと考えているはずです。
(中略)
あの“口パク”にどのようなセリフがハマるのかも、何となくわかるのではないかな、と。
リーンに対するサンクレッドの想いについては、色々と話題になっていた記憶があります。優柔不断に見えるとか、リーンに選択を強いているとか。実際、『あの』ウリエンジェにすら「言葉にしないと伝わらないことがある」と言われるほどでしたね。君がそれを言うのかという話ですが、それほどだったということ。
でもきっと、それらはリーンとアシリア、ふたりの家族をそれぞれに尊重するがゆえのバランスだったのだろうと思っています。その葛藤ね。解釈一致。
そしてランジート将軍との死闘を繰り広げた後、サンクレッドは「ミンフィリア……」と呟いたのち、”口パク” のシーンが描かれます。どんなセリフがハマるのかはいろいろな解釈ができると思いますが……私は、↑の小見出しじゃないかなと思っています。
えめとせるく
──プレイヤーとして一番好きなシーンでもあるのですが、ハーデス討滅戦に突入する直前、大罪喰いの光属性を受け止めすぎて罪喰い化しつつある光の戦士は……
(中略)
そこが、ちょっと僕の解釈と違うところです。ただこれは、何が正解というのはなく、どう感じたとしてもそれが正解です。ですので、あくまで”僕の解釈との違い”です。アルバートが「魂ごと、持っていけ!」と言ったことで確かにもう一段階魂が補完された。”真なる人”の魂の強さにまた一歩近づいた。何とかその時点の光属性の暴走は抑え込めました。ですが、ハーデス討滅戦をクリアーした後に出てくるヤ・シュトラのセリフをもう一度チェックしてほしいのですが、あれだけ光属性でボロボロになっていた光の戦士のエーテルが、闇属性によって相殺されているように見える、と。
──確かに!
ハーデスは、”真なる人”から世界を奪おうとする者に、全力をもって闇の力をぶつけてきた。それに対して、光の戦士は光属性の力を大量に消費することで抗いました。ここはハーデス討滅戦中のハーデスのセリフにも表現されていますし、バトル後の光と闇の激突シーンも同じです。その結果、光の戦士の中にある光と闇、双方のバランスが取れたのではないか?つまりエメトセルクは、もしかするとあの局面で……一連のやりとりをもう一度じっくりご覧いただくと、また違った解釈ができる可能性もあるかな、と。もちろんこれが答えだとは言いません。
……ここについては、以前に書いた記事で言及した内容をぺたりと貼り付けます。
光の戦士は、エメトセルク……ハーデスという闇を打ち払いました。破れたハーデスは、光の戦士のなかで溢れつつあった「光」を「冥途の土産」とし、自らの「闇」でもって拭い去ったのだと私は認識しています。
闇の使徒が、冥きに眠る同胞たちに捧げる光として。
彼は単なる破壊者や殺戮者ではなく、彼の守りたいものを守らんとしていた守護者であり、光の戦士もまた同様に守護者であると理解していたからこそ……そして「あの人」が切り開き、手を伸ばした未来であるからこそ、「そこまで言うなら遂げてみせろ」の想いがこもった、最期の表情だったのかなと思うのです。
エメトセルクなる存在に整理をつけたいと思う。- Remember us… Remember… that we once lived.
₍՞◌′ᵕ‵ू◌₎解釈一致。
おわりに
──『漆黒のヴィランズ』を通じて、プレイヤーは物語の傍観者ではないことに確信が持てました。自分自身が主人公であり“英雄”であることが、強く認識できたシナリオだったと思います。
『新生エオルゼア』の当時は、残されたままの設定を回収しつつ皆さんにお伝えしなければならないことが多かったので、とにかく“英雄”という呼び名を多く使いました。この呼称がピークを迎えたのが、竜詩戦争を終結に導いた『蒼天のイシュガルド』のあたりになります。
つぎの『紅蓮のリベレーター』では、そこから一転して呼び方が“解放者”に変わりますが、その旗の下でもがく真の意味での“解放者”は、むしろ光の戦士よりもリセやヒエンのほうだったりします。“英雄”という呼び方をあえて(過大に)使うことで、(実際の貢献度よりも)名前のほうが先行しているイメージをかもしだしている側面もあります。
そこから『漆黒のヴィランズ』で誰も知らない第一世界に行くと“自分自身の能力こそがこの世界を救える唯一の希望”みたいな方向に進んでいきます。しかし、世界をもとの姿に戻そうとする側から見れば”反逆者”。現在の人類を守ろうとする立場からだと、それを脅かす古代人こそ”反逆者”に見える。“解放者”という言葉が持つアウトローさと、まさに自分でなければそれが達成できない“英雄”という呼び名をうまくミックスして、『漆黒のヴィランズ』に繋げられたと思っています。
どこのチョコボの骨だかわからない冒険者が頭角を表す新生編、数々の武勲から英勇殿と呼ばれるようになった蒼天編、そのネームバリューを良くも悪くも利用された紅蓮編 (とセイブ・ザ・クイーン関連) があったうえでの漆黒編。ときに緻密に、ときに大胆に紡がれてきた冒険譚は、次の暁月編で一区切りを迎えます。
ストーリーで期待されることや気がかりなことは色々とありますが、私の認識は吉田氏のそれと大きくズレてはいないのかな、と思いました。そんな彼の作り上げる物語が紐解かれるのを楽しみにしたいなと思う拙者でございました!
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